We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

え?時間を超越した世界はどうしたら見つかるかって?

そりゃああんた、少なくともこれだけは言える

 時間を掛けて習得しなければいけない事の中には、
 「時間を超える方法」はない

 時間を掛けて改善しなければいけない社会の中に
 「時間を超える方法」はない

 時間を掛けて得られた満足や慰めの中に
 「時間を超える方法」はない

そうやって得た物は
  何かの役には立つかも知れない
  何かの気休めには成るかも知れない

  でも、少なくともその中で得られるものの中に
    「時間を超える方法」が無いのだけは確かだ

  そして、「生と死を超える方法」が、・・・ないのも確かだよ

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10.Worth 価値
自分の価値を証明しようとして、自分自身を商品におとしめては
いけません。
生の最も偉大な体験は、あなたが〝する〟ことを通してやって
来るのではなく、愛を通して、瞑想を通してやって来ることを
覚えておきましょう。


 老子たちが自分の弟子たちとともに旅をしていた。彼らは、
何百人ものきこりたちが木を切っている森にやってきた。、
森全体が何千もの枝を張っている一本の大きな木を残して、
ほとんど切り倒されていた。

    その木は一万人の人びとが木陰に坐れるほど大きかった。


 老子は自分の弟子たちに、なぜその木は切られていないのか
たずねてくるように言った。彼らは樵たちのところに行ってたずねた。
すると、彼らは言った。

  「この木はまるで役に立たない。枝という枝に節が多すぎて、
   これからはなにも作れない--まっすぐな枝がひとつも
   ないのだ。燃料にすることもできない。煙が目の毒だからね。
   この木はまったくの役立たずだ。だから切らなかった。」

 弟子たちは帰ってきて老子に伝えた。彼は笑って言った。

  「この木のようになるがいい。
   もしお前たちが役に立つようなら、切られてしまい、
   誰かの家の家具になってしまうだろう。
   
   もしお前たちが美しかったら、市場で売られてしまうだろう、
   商品になってしまうだろう。この木のようになるがいい。
   まったくの役立たずに……。
   
   そうなったらお前たちは大きく、広大に成長して、
   何千人もの人びとがお前たちの下に蔭を見いだす
   様になるだろう」


 老子はあなた方とはまったくちがった理論をもっている。
彼は最後の者でいるがいいと言う。

世界のなかをまるで自分がいないかのように動くことだ。

競ってはいけない、自分の価値を証明しようとしてはいけない
--その必要はない。役立たずのままでいて楽しむがいい。


     TAO:THE THREE TREASURES,Vol.1,pp.69-71

 その人がどのように有益かということで私たちは人びと計る。

だが私は、
私たちはなにも役に立つことをしないと言っているのではない--

役に立つことをするがいい。

だが覚えておくことだ。
生とエクスタシーの偉大な体験は
役に立たないことをすることから生じる。
それは詩を通して、絵を描くことを通して、
愛を通して、瞑想を通してやってくる。

 商品におとしめることのできないなにかをする能力があって、
初めて最も偉大な喜びがあなたを押し流す。


報酬は内側にある。

もともと備わっている。それは行いから湧き起こる……。

 だから、自分は役立たずだと感じても心配することはない。

私はあなたの役立たずをも使う。
私はあなたを大きな葉むれのある
巨大な木にするつもりだ。

それに、
役に立つ活動にたずさわっている人びと、
彼らにはときとして木陰で休む必要がある。

 THE WISDOM OF THE SANDS,Vol.2,pp.308-309,311-312


この世界のどこを探してもマイホームなどない・・・
・・・その洞察に辿り着いた者だけが全世界を我が家に出来る By OSHO

孤独に悶え苦しんでいた若い時、私は自分の「ふる里」を死に物狂いで探していた
何と言う馬鹿なことだろうか?

でっち上げられた「ふる里」、生まれたあとから見つけた「マイホーム」が
「我が家」であろうはずがないじゃないか?

孤独な男は、女を捜す、母の面影を探す、愛を探す、心のふるさとを探す・・・
幸運なことに、私は生まれてくる時、この「ふる里探しの探求者」として
申し分のない完全な環境、あり得ない程孤独な環境に生まれた
私の生家とは、私にとって生まれた瞬間からすでに「生家」ではなかった
両親は若いウチから義務感だけで夫婦を続けていていがみ合っていた
社長令嬢だった母は、恵まれていることが当たり前で
「愛とは何か?」一瞬たりとも疑問に思った事がない女だった
だから父はずっと、とてつもない孤独を味わっていた

私にとって母という女は、子供のうちは優しいだけの存在だったが
その「優しさ」の正体が実際には打算とエゴイズムであることを
私は子供のうちから何となく察していて
父と同じように激しい孤独感を常に抱いていた
大好きで優しいはずの母の手を握り、街を歩いていた少年の時も
自分が何故こうも酷く寂しかったのか??
その自分の気持ちが不思議で不思議で仕方なかったが、
その理由は現在の自分ならハッキリ言語化出来る

だから今がある
物理的には豊かでありながら、
精神的には義務感と世間体だけが支配する家族関係・・・
冷酷で真っ暗な精神状態の家、地獄の釜のような欠乏感を抱えた母・・・
たぶんある意味では「みなしご」以上に孤独な状況だった

当然私は「心のふるさと」を探す旅をせざるを得ない環境だった

わたしは霊的世界に「こころのふるさと」が見つかるのではないか?と期待し
いろいろな宗教を遍歴した

宗教が扱う世界、目指す世界は「無限の霊的世界」だが
宗教団体そのものは、この「有限の世界」にある

つまるところ「地上に霊的楽園を実現させようとする」全ての試み
すべての霊的な団結は虚しい  ・・・そこには必ず「始まりと終わり」がある

それをわたしはいくつかの宗教団体やコミューンで目撃してきた
たとえどれ程の愛情と気遣い、善意を人々が持ち寄っても
「つくられた人口の家」が人の心のふるさとになる事など、決してないのだ

人とのきずなも同じ事だ、それは「団体」だけではない
プライベートな男女の関係も叉、「あらわれては消えてゆく」泡のようなものだ

誰かに「愛を求める」・・・ 何かに「ふる里を求める」・・・
その「求める」「期待する」「信じる」ということ、それ自体が
「でっち上げられたものであること」の動かぬ証拠なのだ

あなたが恋人にキスを求める、ハグを求める
恋人は応じてくれるかも知れない・・・

 しかしそれ自体が「応じられたもの」なのだ
  けっして「そこにあったもの」「ありつづけるもの」ではない

   それを「愛」それを「ふる里」と呼べるだろうか?
   私達はますます欲求不満になるだけだ、ますます餓え、渇いていく

「求めて」得てたものは、絶対的に「去って」ゆく宿命を負っている

決して求める必要すら無いもの
決して去らないもの、決して死なない永遠不滅のもの・・・
それだけが「私の不滅の王国」「私のふる里」と呼び得るものだ

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