We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

受け入れの法則
山川紘矢
リンダパブリッシャーズ
2016-09-13


〝受容性〟と言うことに関してOSHO程、言葉を費やした人はいないだろう
女性原理としての受容性の重要さは男性原理的な探求性を超えた価値がある

しかしOSHOはまた「リベリアス・フラワー(反逆の花)」でもある

生物の進化において生存競争、適者生存の厳しい自然のルールは
種族としての様々な多様性を産み出したが、
〝生き延びる〟創意工夫というのは、あくまでも
〝自然のルールが〟もたらした自動的な進化に過ぎず
それは生物形態や生活様式、集団意識としての進化しかもたらさない

とりあえず〝餓え〟〝外敵〟〝暑さ寒さ〟といった
生存を脅かす危険信号から解放されつつある私たち人間に
次に突きつけられた課題は、〝個〟としての意識的進化だ

「いつかどこか(種族の繁栄)」から「いまここ」へ・・・
この進化の垂直的な方向転換の、私たちは今真っ最中である
ここにはマニュアルテキストも地図もない、全く新しい荒野がある
ひとりひとりが前人未踏の危険な、莫大な自由が突然突きつけられる

以下の写真は、今朝代々木の三丁目で通りかかったお寺の前を撮影したものだ
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日本人評論として聴かれるひとつは血液型Aの農耕民族特有の
「同質社会」「無言の同調圧力の社会」であり
それは異質~変な人を村八分にする、いびり殺そうとする風潮だ

ここでは「リベリアス・フラワー」はけして開花しない
開花する前に大概いびり殺される

「受け入れの法則」というのはある意味でこうした同調圧力の社会の中では
「心地よい当然のマナー」の様に受け取られることだろう

「法則」と言った時点で私たちはそれを金科玉条の如く、錦の御旗の如く
得意満面に振り回す悪い癖がある

「法則」として祭り上げた時点で、真実は死ぬのだ
そして「変な人」「リベリアス・フラワー」も血祭りに上げられる

現在のニートと呼ばれる人種は必ずしも現代だけの現象では無いと思う
大昔から生産性や社会的動機付け、所属性に違和感を感じ、
夕暮れを眺め、夜空を見つめる存在はいたはずだ

必ずしも詩人的ではないにせよ
「変な人」「ハグレもの」はずっと昔からいた

しかし社会が飢餓や天候と闘っている様な時代、
彼等の存在は足手まといだっただろう

「ヘンな人達」は部落を作って(棄民されて)生き延びたり
あるいはそれがヤクザ社会の原型になったりしたはずだ

「フツーの人達だけがフツーに暮らす権利がある社会」だった
  でもその極端なまでに同質社会だった日本だからこそ、
            いま、その限界も来ている

いま誰もが社会の規格品として機能することに違和感を感じているはずだ
政治的発言権を得るためには、だれもがどこかに所属してマジョリティーになる
・・・「頭数を集める」ことが民主主義の基本的なルールだが、
    本当にそれがフェアな社会だろうか?

結局それは洗脳の上手なカルト宗教に社会が乗っ取られるという結果になっている
それらすべてに「受け入れの法則」で果たしていいのだろうか?

結局のところ〝法則集〟というのはロボットを、兵隊を、頭数を量産するだけだ
私たちは価格競争しか能が無い大量生産品はもうウンザリする程持っているし
ましてや自分たち自身がそんな規格部品に成り下がる生き方を望んではいない

OSHOは
「心からの自発的な受容で無い限り、そんなものは受容とは呼べない」
とクギを刺しているが、「法則」に盲目に飛びついてしまってはそれは見えない

勢いで何でも「イエス!」と叫ぶ時、同調圧力の中、みんなで叫ぶ時・・・
本当は誰もが自分自身に〝微妙なウソ〟を付いているはずだ
その〝微妙なウソ〟が折り重なっていった時、
もう本当の「心からの(内発的)受容性」を見つけるのは難しい

文明と文化とは日本語的字面としてはよく似て見えるので
私たちは普段あまりその違いを意識していない

しかし英語だと
「カルチャー(Culture)」と「セベライゼーション(civilization)」なので
まるで違う

五井野正氏によるとcivilizationの語源的な意味は「都市化」なのだそうだ

スタートレックのオープニングでは
to explore strange new worlds,
to seek out new life and new civilizations,

そこには人類の想像を絶する
新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。
と語っているが
もし私たちが銀河を飛び回れる程の宇宙船で未知の知的な生命体との出会いを
探し回るなら、一番分かりやすいのは「ハイテクな都市が建設されているか?」であろう

「ぱっと見て判る」のが文明だが
ひとつの国の文化というのを理解するのは並大抵のことではない
未知の言語の習得が難しい理由もそこにある
たぶん「文明的な単語」ならば私たちはすぐに共通項を見つけられるだろう
なぜなら利便性を求めたテクノロジーならばある程度「考えつく結果は同じ」だからだ
ところが文化となると、そこには想像を絶する歴史や発想が込められている

もし「文明と文化との違い」を単純、端的にまとめるならば
文明とは知性の時空間的「広がり、膨らみ」であり
文化とは知性の意識的な「深み」「高み」なのだと思う

アメリカインディアンは、貪欲で邪悪な白人が侵略してきた時
彼らにあがなうだけの文明の利器は持っていなかったが故に
皆殺しにあってきたが
彼らの精神文明は極めて高かったのだろうと言われている

文化というものはOSHOがいうところの「花の強さ」を持っている
それはあっさりと手折られてしまい、文明によって焼き払われてしまうだろうが
 利便性、機能性を追いかけただけでは決して生み出せない、
  香りとみずみずしい美しさをスピリチュアルに表現出来る

文明の危険性と破壊性、自己増殖する暴走性を、
文明とは全く違った「強さ」によって牽制できるのが
文化を深め、守り抜いてきた民族がなせる技だと思う

そういう意味で
アメリカインディアンの丁度真逆なのが現代の中国人だといえる
「文化大革命」と銘打って
知性の深みを唯物主義的に根絶やしにしようとした結果が
現代のモラルも何もかなぐり捨てた銭ゲバの成金中国人達の成れの果てだ

文明の発展を追いかければ追いかける程
「文化とは何か?」人々は忘れ去っていき、考える人さえいなくなるだろう

最終的な闘いとは from Katal Maneel on Vimeo.


地球を守る闘いは
ただのミリタリーバランスじゃない
ただの知恵比べでもないし、根比べでもない
最終的には価値観と価値観との闘いになるんだ・・・・

わたしは誰が悟っているだの、まだ悟っていないだのの評論には興味は無くなったが
幸運にも「ああ、この人悟ってるな」と確信をもった人物と何人か出会ったことがある

そう感じられた人達の共通項に今朝ふと、気が付いた
彼等、彼女らは性別を問わず皆、一様に
「全身がカミソリの様な鋭い感性に満たされていながら、
 同時にとてつもなくスゥイートな優しさを持っていた」ということだった

OSHOは「悟った人の唯一の物理的共通点」として
「愛に満ちている」と言ったが、
私が感じた彼等の共通点とは、まさしくそれかもしれない

つらつらとそんな想い出を巡らせていたら、
(きっと彼等のエネルギーを呼んだのだろう)
とっさにこんな事に気が付いた・・・

人はなぜ思考するのか?人はなぜ語ろうとするのか?と言えば
その理由は
「誰かに聞いてもらいたいから」
「誰かに理解して欲しいから」だ

・・・じゃあ誰に?

答えは簡単だった、
究極的には
「自分自身に」である

わたしたちが生涯を通じて最も渇望し続けているもの・・・
 ・・・それはまぎれもなく自分自身からの愛と理解だ

でもそれは逆を言えば、私たちは
自分自身の心の声を
ちゃんと聴いてあげていない
からこそ
心のおしゃべりが停まらないのではないだろうか?

気が付けば私自身も自分自身の心のおしゃべりを「五月蠅いなあ」と
迷惑がってそっぽ向いているところがある・・・

もし瞬間瞬間の自分自身をわたしが受け入れていないとしたら
まさしくそのことなのではないだろうか?
なぜそのことに今まで気が付かなかったのだろう?

自分自身を受け入れる、自分自身に素直になるというのは
儀式的に一回すれば、ハイそれでオシマイというものではないのだ
     ・・・・・それは永遠に続くプロセスなのかも知れない

昨夜見たドラマ版「スーパーガール」の一幕では
「世界秩序の目的のためには手段を選ばなくなりつつある」主人公に
ジミーオルセンが苦言を呈する

「最終的には価値観と価値観の闘いなんだ!」

もしそのとき
「目的のためには鬼になる、手段を選ばない」ならば
そのとき人々は共感出来るだろうか?

まさしく「目的と手段との分離」が葛藤を発生させる
そこで目的や動機がたとえ正しくても、もうそこに正義はない

そのとき自分自身の中での
全身全霊で言える「イエス」などあり得ないのだ

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