We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

「あの人は悟っている」だとか
「この人はブッダだ」という言葉に惑わされてはいけない

そういう噂話をしている人達は、自分の願望について話をしているだけだからだ

弟子や追随者の言葉はすべてコピー品だ
たとえ
誰が悟っていても、
誰が悟っていなくても
いかに美しい愛を語ろうとも
「悟っている人とはこうであるに違いない」とか
「覚者とはこんな人物に違いない」という期待や願望やらのイメージから
わたしたちは一歩も逃れてはいない事を肝に銘じるべきだ

追随や模倣とは「覚醒への努力」に見えても、実体は「慰め」だ
「慰めコレクション」を後生大事に抱きかかえ続けている時
それを「覚醒への努力」と言えるだろうか?

メクラ同士が集まって、目の見える人の噂話をしても
そして目の見える人から直接体験談を聞いたとしても
メクラが光を見ることなど決してない

情報が正しいか?事実なのか?それとも間違っているのか?
・・・そんな事とは無関係に、自分自身の憐れな願望を寄せ集めても
       そこから真実が積み上げられることなど永遠にないだろう

わたしがニセモノで在る以上、私を取り囲む世界の全てがニセモノ、まやかしだ
だから、本当はヒントなどない、手がかりなど一切ない、私達は自らの嘘で隔絶されている

われわれは
深い眠りのなかで
幻を見て生きている。
希望、未来、明日という幻。
人は、
その現在の状態では、
自己欺瞞なしでは
生きていけない。

ニーチェが言うには、
人は真実と共には
生きられない。
夢、幻、嘘なしには
生きられない。
ニーチェの言うことは本当だ。
人間は、
その現在の状態では、
自己欺瞞なしでは
生きていけない。
これを深く理解する必要がある。
これを理解しないかぎり、
ヨーガと呼ばれる
探求の道に
入ることはできない。

マインドを
深く理解する必要がある。
嘘を必要とするマインド、
幻を必要とするマインド、
リアルなものには
直面できないマインド、
夢を欲しがるマインドを。
人は夜にだけ
夢を見るのではない。
目をあけているときでさえ、
あなたは夢を見ている。

・・・

現在というのは、
多くの場合、
地獄を意味する。
この地獄を我慢できるのは、
未来に希望を
投げかけているからだ。
明日を夢見ているから、
今日を生きられる。
明日には何かいいことが起こる、
楽園の扉が開くかもしれないと、
あなたは思っている。
それが
今日起こることはない。
だが、
その明日がやってきて、
明日が今日になったとき、
あなたのマインドは、
そのまた先のことを
考えている。

あなたはいつも、
自分がいるところの先を見ている。
夢を見ているというのは、
まさにそういうことだ。

あなたは、
現実と結ばれていない。
いまここに、
身近にあるものに触れていない。
あなたはよそにいる。
自分の先回りをしている。

・・・

このようなマインドは、
ヨーガの道に入れない。
ヨーガとは、
真実を知るためのメソッド、
夢を見ない精神に
到達するためのメソッドだ。
ヨーガは、
いまここに在るための科学だ。
ヨーガは、
未来に想いをはせるのを
やめる覚悟ができたということ、
希望を捨てる用意がある、
自分の存在の先回りをすることを
やめる準備ができたという意味だ。
ヨーガとは、
ありのままの現実に
直面することだ。

だから、
自分のマインドに
飽き飽きした人だけが、
ヨーガの道に入れる。
自分のマインドを使って
何かが得られると、
まだ期待しているならば、
ヨーガは、
あなたに向いていない。
全面的な不満が必要だ。
未来に想いをめぐらせる
このマインドは無益なこと、
希望しつづける
このマインドは
馬鹿げていること、
それによって
人はどこにも行き着けないことを、
はっきりと
悟ることが必要だ。
それはあなたの目を
閉ざしてきた、
あなたに麻酔をかけてきた。
それのおかげで、
あなたは
現実を見ないでいられた。
それはあなたを
現実から護ってきた。

・・・

マインドは
麻薬だ。
マインドは
真の世界に敵対する。
だから、
自分のマインド、
自分の存在の有様、
自分のこれまでの生き方に
完全に幻滅し、
それらを
無条件に落とさないかぎり、
道には入れない。

多くの人々が興味は持つが、
道に入る者はわずかだ。
あなたの興味というのは、
マインドの興味かもしれない。
今度はヨーガを試してみたら、
何かが手に入るかもしれないと
期待している。
そこには、
達成に向けての
欲望があるかもしれない。
ヨーガを通じて
完璧な人間になる、
完璧な存在となって
至福を体験するといった。

・・・

そんな理由で
ヨーガに興味を持っているならば、
あなたと、
ヨーガの道の間には
接点はない。
あなたは、
完全に逆の方向に
動きたがっている。

ヨーガとは、
「もはや希望はない、
 もはや未来は無意味だ、
 もはや欲しいものはない。
 だが、
 私には、
 ありのままの現実を
 知る覚悟がある。
 物事がどうなりうるかとか、
 どうあるべきかとかには
 興味がない。
 私は、
 ありのままの現実に興味がある」
という宣言だ。
リアルなもの、
真の世界の体験だけが、
人を解放するのだから。

・・・

完全に絶望しなさい。
未来と希望を捨てなさい。
これは難しい。
リアルなものと
向かい合うには
勇気がいる。
だが、
どんな人間にも、
たまには
そうした絶望が訪れる。
完全な絶望、
完全な無意味さを
感じるときがある。
自分がしている
すべてのことは無益であり、
どんなに奮闘して
もどこにもたどり着かないことを
知ったとき、
突然、
希望は失せる。
未来は消える。
そのときはじめて、
あなたは
真の世界に対面する。

Osho - Yoga - The Alpha and the Omega

2017-07-06

Star Trek The Next Generation 第136話
「甦ったモリアーティ教授 Ship In A Bottle」


・・・の感想

ある次元(夢)のなかでの満足が得られた時、
わたしたちはその夢のキューブの中に閉じ込められ
そして誰かに笑われながら「取り扱われ」ることになる


自由はキューブの中に 投稿者 maneel-katal

「幸せ?」  ・・・確かに幸福ではあるだろう、自由も感じるだろう
それが「与えられた自由」だと気が付かない内ならば

この時空間が、もしひとつの金魚鉢であるならば、
わたしたちはその中を泳ぐ金魚だ

透明な金魚鉢の壁が球面上にカーブしていれば
わたしたちはその壁を無意識に迂回し、
そして傷つくこともなく、何の限界も感じずに
その中で一生を過ごすかも知れない

「私は自由だ」と感じて満足することが
ひょっとしたら最大の奴隷状態かも知れないが
でも。とても「幸福な」奴隷だろう

私たち金魚にとって、金魚鉢の外側に憧れることは
単純に不幸なだけかも知れない

「自分達は飼育された屈辱的な存在だ」ということが真実だとして
その真実にはいったいどんな価値があるだろうか?

・・・ただし、価値があるかないかはさておき、
   自分が金魚鉢の中の存在だと自覚してしまうことは
   とてつもない不幸であることは間違いなさそうだ

その真実に価値があるとするならば、
それは私たちが金魚鉢の外で生活出来る可能性がある時だけだ

そこには私たちが、夢にさえ見ることがなかった新しく広大な世界があるだろう
そして莫大な自由がある・・・ でも、それを知らなかったとしても
その自由を享受出来る能力が無いならば、いささかも不幸でも不自由でもない

自由とは、比較不能なのだ

金魚鉢の中の金魚が感じている自由や幸福と
私たちが感じている自由や幸福とは比較不能だ

それは、あまりにも規模が違いすぎるからでも、異質だからでもない
自由とか幸福というのは滅多に自覚出来ないものだからだ・・・

自由や幸福を自覚する時と言うのは
凄まじい不自由や不幸な体験とのコントラストでしか自覚出来ないからだ

「自覚出来ないもの、自覚していないもの」をどうやって比較出来るだろう?
その点では金魚も人間も同じだ

だから唯一、とてつもない不幸や不自由を自覚出来るものだけが
膨大な幸福や、爆発的な自由を自覚出来る可能性を得る

だれも、体験している物理的な現実は大した違いは無いだろう
誰にでも赤いリンゴは、大体同じように「赤いリンゴ」に見えているはずだ

物理的な現実の体験は大体皆が大差なく共有しているのだと思う
にもかかわらず、「何かがおかしい」と感じる人々も存在する・・・

それはハッキリと言葉では説明出来ない ・・・でも感じる
気がおかしくなりそうな程・・・  何かがヘンだ
モーフィアスとアンダーソン

なにか「キューブの中に閉じ込められたような」感じがする
そんな感じがして「気が狂いそうな状態」は確かに不幸だろう

でもそれでもいい
きっとその「奇妙な感覚」とは、「オマエは金魚ではない」と告げているのだ

私には全ての馴れ合い、全ての優しさ、全ての愛が、ニセモノに感じる
それらがすべて「金魚に与えられている環境とエサ」のように見える
目に見えない、滑らかにカーブして屈曲した金魚鉢の透明な壁面がそこにある
私の中のムズムズした感覚が告げる・・・「ウソだ、嘘だ、すべてがデタラメだ」と

no title

Star Trek The Next Generation 第134~135話
「戦闘種族カーデシア星人(後編) Chain Of Command, Part II」

カーデシアに囚われたピカードは拷問に掛けられた上で自由をエサに
4っつしかないライトを「5つ」と答える様に強制される

1

最後まで拷問に耐え抜いたピカードは最後に絶叫する

「ライトは4っつしかない!四つだ!!」

no title

4っつしかないライトを5つと答えるだけで「自由にしてやる」という誘惑を
なぜ振り払う必要があっただろうか?

 別に4っつだろうが、5つだろうがいいじゃないか?

・・・しかし、ここにフランス人としてのピカードの
   「意地」あるいは「誇り」というものがよく描写されている様に思う

人生では、ひとたびこの「意地」というものをねじ曲げてしまうと
もう二度と後戻りは出来ないことを、ピカードはよく知っているからなのだろう

ひとたび誘惑に負けて
白を黒と言ってしまうと、自分自身を曲げてしまうと
人間はもうあとはなし崩しに「他人のオモチャ」へと転落してしまう

この恐ろしい誘惑は、とてもさりげなく日常の中に忍び込んでくる
自分自身への欺瞞とは、とても微妙に少しずつやってくる
「自分自身を欺いた」という自覚とは「習慣」の中から浸食してくる
しかし確実に私達を家畜化、奴隷化してゆく

私達は金銭を与えられ、訓練を受け、ちょっとずつ抵抗感を失ってゆく
「生活のためなんだからやむを得ない・・・」あるいはありとあらゆる弁明が
妥協してゆく、流されてゆく痛みの慰めとして、麻酔として機能してゆく

〝現実的〟妥協は、鈍感さは、日常生活では「生活必需品だ」というのが
この社会に生まれてきた時からずっと私達を覆ってきたワナなのだと思う

私達はいつしか自分から自主的にこの麻薬を服用しはじめる
そしてこの〝痺れ〟が薄らがない様に、この麻薬をますます強くして
種類を次々と増やして、一層煽り続ける・・・ そしてこの麻薬漬けの終焉が
癌であったり、その他の生活習慣病だったり、自殺だったりする

わたしたちは「なぜ?」「どうして?」という質問を徹底して追求したことなどない
そんな事をしてしまったら「キリがない」「シラけてしまう」
つまりは「日常的常識という〝酔い〟が醒めてしまう」からなのだ

一見どうでも良い様な妥協こそが、実は自分自身を喪失する落とし穴への一歩なのだ

社会とは、私達にユニフォームを着せたがる
子供のウチから、まず人間としての尊厳をむしり取る
「ノー」と言わない人格形成をあしらっていき
「協調性」「融和性」「リーダーシップ」を良い資質として褒めそやし
「非協力的」「協調性の無さ」は叱責されたり、無視されたり、排除される

そういう基準が埋め込まれ、人は皆ロボットの様に生きてきたのだ
それは本物のロボットの生産性の高さが台頭する現代によって、
もう終焉を迎えるべき時を迎えたのだろう

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