We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です






06 & 07.Greed &Beyond Greed
       強欲
あなたのマインドとその強欲さ、そして信頼の不足に気をつけましょう。
強欲が変容される機会は覚醒を通して訪れます。



7.Beyond Greed  強欲を超える
 なにが与えられていようとも、それは絶対に正しいのだという
信頼に向けて、自分の覚醒の向きをポジテイヴな方向に変えましょう。

そしてこの信頼のなかから、自分自身が感謝こ満ちて踊るのを許すことです。


 インドの偉大な神秘家、ナラダは、神に会いに行こうとしていた。
ヴィーナを奏でながら森を過ぎてゆくと、
彼は樹の下に坐っている非常に年老いた聖者に出会った。 年老いた聖者は言った。   「私からの質問をひとつ、神にたずねてみてください。    私は三生にわたってあらゆる努力をしてきています。    そこで、あとどのくらいの努力が必要なのか、    私の解放はいつ起こるのでしょうか?」と。 ナラダは笑って言った。「オーケー」 さらに歩いてゆくと、別の樹の下でエクターラを手にして
踊り、歌っている若者を見つけた。
ナラダは彼に冗談のつもりでたずねた。   「君も神になにかたずねて欲しくはないかい?」 若者は答えなかった。
彼はなにも聴かなかったかのように踊りつづけた。 二、三日してナラダは帰ってきた。彼は老人に伝えた。 「神に聞いてきた。彼はさらに三生だと言っていたよ」 老人は怒り狂った。数珠を聖典に投げつけた。                彼は言った。  「それではまるで不公平ではないか!さらに三生だと!」 ナラダは若者のところに行った。
彼はまたしても踊っていた。

ナラダは言った。
 「君はたずねなかったけれど、
  ついでに君のことを神にたずねてきた。
  でも、いまとなっては君に伝えたものかどうか……。   あの老人の怒りを見て、私は言い出しかねている」 若者はなにも言わなかった。
彼は踊りつづけていた。
ナラダは彼に伝えた。  「私がたずねたら、神はこう言った。   『その若者に伝えなさい。   〝お前は、その下で踊っている樹についている    葉の数と同じだけ生まれてこなければならない!』             ・・・・と」 すると、若者はさらにもまして
エクスタティツクに踊り始めた。 若者は言った。  「そんなに早いのか? 
  世界にはとても多くの樹があるし、   たくさんの葉がある……たったそれだけ?   今度神のところに行ったら、
  彼にありがとうと伝えてください!」 そしてその若者は、まさにその瞬間に解放されたと言われている。  もし信頼がそれほどまでにトータルだったら時間は必要ない。  もし信頼がなかったら三生ですら充分ではない。   そして、これは私の感触だが、その老人はいまでもどこか   そのあたりにいるにちがいない。そのようなマインドは   解放されえない。そのようなマインドこそ地獄だ。      THE PERFECT MASTER,Vol.2,pp.287・289


50.Compassion
   慈悲
 慈悲は、他人への同情でいっぱいになった血のにじむようなハートを
持っていることではありません--慈悲とは、状況に覚醒をもたらすの
に必要なことであれはなんでも喜んでやるほどの、愛の深さです。


 イエスの生涯で起こったある状況を思い出してほしい。
彼は鞭を取って、エルサレムの偉大な寺院に入って行った。
イエスの手に鞭? これこそ仏陀が言ったことの意味だ--

「怪我をしていない手は毒を扱うことができる」。

そのとおりだ、イエスは鞭を扱うことができる。問題はない。
鞭が彼を圧倒することはありえない。彼は油断せずにいる。
彼の意織はそれほどのものだ。

 エルサレムの偉大な寺院は泥棒たちの場所になっていた。
巧妙な盗みが行われていた。寺院のなかには両替人たちがいて、
彼らは国全体を搾取していた。

 イエスは独りで寺院に入り、
彼らの机--両替人たちの机--をひっくり返した。
彼らの金を投げ捨てて、たいへんな動揺を引き起こしたために、
両替人たちは寺院の外に逃げた。彼らは大勢いたが、
イエスは独りだった。だが、彼はそれほどにも激怒していた。

 さあ、これはキリスト教徒たちにはずっと問題だった。

それをどう説明したらよいのだろう?
--というもの、イエスは鳩、平和のシンボルだということを
証明しようとするのが彼らの努力すべてだからだ。
その彼がどうして自らの手に鞭を取りえたのだろう? 
どうして彼は、両替人たちの机をひっくり返して、
その両替人たちを寺院の外に放り出すほど怒ることが、
激怒することができたのだろう? 

そして、彼のエネルギーは吹き荒れていたにちがいない。
彼らは彼に顔を合わすことができなかったのだ。
僧侶たち、商人たち、それに両替人たちはみな、

「この男は狂ったぞ!」と叫びながら逃げた。

 キリスト教徒たちはこの物語を避ける。
もしあなたが仏陀のこの経文を理解したら、
それを避ける必要はない。


 怪我をしていない手は毒を扱ってもかまわない
 無垢は傷つくことはない


 イエスは絶対的に無垢だ! 
彼は暴力的ではない、破壊的ではない-
それは彼の慈悲だ。それは彼の愛だ。
彼の手にある鞭は、愛の手にある鞭だ。


 THE BOOK OF THE BOOKS,Vol.4,Discourse15



泥の中に沈んでまだ芽を出さない蓮の様に、
人々は泥と自己同一化している。

この深いアイデンティティーを打ち壊すことこそが
「真の救済」であり、それをもたらすのが「最良の友」だ。

弥勒=マイトレーヤとは私たちの「最良の友」と言う意味だ。
弥勒が私たちの「友」である為にはまず
弥勒自体が泥の中から開花した存在でなければならない。

聖書に登場するような、
「泥に染まった経験」のない天使や精霊や、
生身の交わりなくイエスを生んだマリア様では
弥勒の役割を果たせない。

処女の母から生まれたり、
水の上を歩いたりという奇跡のエピソードは
神のひとり子、特別な救世主であることを
人々に信じ込ませるには都合良いが
でも仏教的な伝説として救世主と言われている弥勒とは、
「全知全能の神から使わされた救世主」とは全く性質が異なる。

私たちは「キリスト教的な救世主」ならば知的に理解しやすいが
「真の友情」が、「真の救済」であることを理解することは出来ない。
なぜならば、私たちは真の救済など求めていないからだ。

マイトレーヤこそが、「真の友人」と呼ぶにふさわしい。
しかし私たちは真の友情とは何かを理解しようとすることはほとんどない。




如来とは「女の口(女陰)から来たもの」
つまり泥の中から生まれて来た普通の人、っという意味だ。

誰もが・・・、
 ホームレスのおじさんも、
 今、話題の「悪魔崇拝者達」さえもが、
         ・・・本質的には如来だ。
その存在だけで、
「悪役」「通行人」役も含め、
 聖なる自分だけのお役目を生きている。

だれもが泥の中に沈んだ蓮のように
悟性を宿している以上、仏であり、如来なのだが
ただし、
あえて「如来」と呼び得るのは「泥の中から開花した蓮」だけだ。
いまだ開花していない蓮たちは「泥のお役目」しか果たせない。

西欧のキリスト教とは、旧約聖書と仏教とが合流して
弥勒信仰が救世主信仰へと、劣化コピーした「泥沼」宗教だ。


仏教全体を象徴している蓮の華=LOTUSは、
「泥池」という障害物を力強くはね除けて開花した
      「強さ」「勝利者」の様にも見えるが、

でも、泥の池は蓮に開花の為の最高の・・・、
       〝最高の〟
       環境を蓮に与えている。

蓮は決して泥と「闘って」開花したのではない。
むしろ
「泥池の水分と養分に育まれて」開花したと言って良いはずだ。

仏や如来、弥勒が、
得てして女性的な優雅な姿で描かれているのは、
この「泥池で闘ったのではなく、むしろ育まれた」神秘を物語っている。

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妙敬さんが動画で言われる「強さ」「弱さ」「美しさ」とは
「泥沼と闘う」意志的な強さから
「泥沼は自分を育んでくれた母体だった」っという視点へと
 転換(ピポット)する聖(静)なる強さとの対比を言っているのだと思う。


内側から湧き出る「怒りの感情」でさえも
本当は「内側-わたしの本質-」ではないのだ。

静寂の中で「怒り」をもゲスト=外来者として受容した時、
何世の輪廻転生の努力で、どれほど格闘しても
決して押さえつけられなかった「怒り」は
自己同一化のリンクが「カチッ」っと切れて、
       楽しみ、味わい、爆笑の対象へと相対化される。

渦中にあって、
「それ」を「それ」、「あれ」を「あれ」だと見た時、
私たちは泥池と自分自身とをもはや混同していないのだ。

  指させる「それ」や「あれ」を
  一体どうして自分自身だと呼び得るだろう??

この瞬間に立ち会った時、マスターの真の友情が理解出来る。
        マスターを「おお!!友よ」と呼べるのだ。

フリーメイソンでも良く使う「33」は弥勒信仰を暗示している。
    「真の友人、弥勒=あなたは私の鏡です」という意味だ。

        3+3=6、3x3=9→369

その時、「怒り」さえもが美しい

34・Anger 怒り
コメント 2020-05-16 205022



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