We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です



本当は私たちは操り人形に過ぎないかも知れない
私たちの尻尾をイタズラして笑っている宇宙人が
どこかにいるのかも知れない



でも、それでも
「いまここで感じていることが全て」なのだ
 例え遠い星に「私たちの本体」があるにせよ
    いまここにおいては大した意味は無い

重要なのは「なぜ?」のルーツ探しなのでは無く
いまここにある感触を楽しむこと・・・
「楽しんだ方が勝ち(価値)」なのだ

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農業は今もある
牧畜、畜産は今もある

じゃあ白人を主とした狩猟民族達は
その先祖の血をどの様に満足させているか?

彼等は〝他民族〟を狩ってきた、奴隷にしてきたのだ

それは芸能などで観客を魅了するという〝狩りの仕方〟もあるだろう
それは商売などで顧客を獲得するという〝狩りの仕方〟もあるだろう

しかしもっとも狩猟民族の血を満足させるのは
「他者を狩って、その生き血をすする」ことなのだ

・・・だから「誰もが平和を望んでいるハズだ」というのは
   農耕民族A型が大半である日本人の、あくまで幻想に過ぎない

しかし、ポイントは血液型とか人種、肌の色では無い
日本人もまた大多数が百姓ではあっても、
あくまで武家社会としての時代が長く
「戦の民」としての側面が混在している

個人の中にだって狩猟民族、遊牧民族、農耕民族・・・
としての様々な要素が混在している

それは原初生命の段階にすでにあったと思う
だからそれは生き物としての営みの上で
 決して完全に消去することが出来ないであろう要素だ・・・他者の略奪

借金による通貨の発行や戦争というのが
「他者の略奪システム」としての最後の牙城だ
だからこの〝野蛮さ〟を人類全体が淘汰することはなかなか難しいのだろう


五井野正の弟子だった何十年も前から感じていたこと・・・

 それは、「聞き手の影響を計算して語れるか?」ということだ

五井野正の発想は実に画期的で啓発性に溢れてはいたが
そのことに本人が溺れきっていたように見えた
でもそれはたぶん彼の出自である創価学会、~池田大作に対する
憧れと劣等感ゆえだったのではではないか? っと私は密かに思ってきた

その劣等感の結果としてなるべく多くの人の称賛や理解を望んでいたし、
それは時としてかなり威圧的で突っ慳貪な態度として弟子達に吐露されていた

・・・その結果、彼を裏切る側近も後を絶たなかった
   (彼曰く「創価学会の工作隊だったのだ」とのこと)

こういった
「高圧的な中小企業のモーレツ社長タイプの指導者」には
私の様なボンクラが集まってくる
  いわゆる「叱って欲しい人達」だ
   優越意識を満足させたい指導者に対して
    彼等は選民意識を満足させたくて集った「迷える子羊たち」であり
  「宇宙創造神・五井野正」のワンマンショーへの出席を許された彼等は、
   その壮大なお話しに随喜の涙を流す

それは一方通行のスピーチだから質問すら一切許されず
「理解して感動した」人達が正しく
「理解に苦しむ」人達はその人達自身がバカだから、ということになり
              容赦なく置いてきぼりだった
(少なくとも私が行っていた時はずっとそうだった、
 その後、残った後輩からは「質問も受け付けるようになった」と聞いてはいる)

OSHOもシーラ一派の裏切り劇があったりはしたが
弟子達に対するアプローチは五井野正とは正反対のスタンスだった
コミュニケーション、つまり質問も多く受け付け、
個人的なダルシャンを大事にし、
しかしそれ以上にコミュニオン・・・弟子達との交流、サットサングを
                     何よりも最重要視していた

五井野正は、ティーチャーである以上に、ウイッピーの指導者であり
OSHOは、ティーチャーでも、指導者でもなく、マスター(臨在)だった

OSHO自身も
「私は集団の味方なのではなく、常に個人を支持する」と言っていた

・・・私から見れば、実に対照的なふたりだった

OSHOにとっては常に、今目の前にいる個人が最愛の人だった
瞬間瞬間に常にありったけのエネルギーを投入していたのだ

だから五井野正の側近達の裏切り劇は、単純な離反だったが
シーラやその他の弟子達(特に女性の)の裏切りとは
「彼を独占したい」人達だったのじゃないだろうか? つまり嫉妬だ

    自分自身が発する一言一句、一挙手一投足が、
      はたして周囲にどの様な影響を与えるのか?
        そしてその結果、どういう行動を取るか?

それら、「全体的な波及効果」がどこまで広範囲に計算され尽くされているか?
それがマスターとしての器の大きさであるように、つくづく感じる
まあその〝計算〟をしているのは、宇宙意思そのものなのだろうけれど・・・

OSHOは、
「本当は私は誰のマスターにも成りたくはなかった」と晩年に打ち明けている

それはつまり、あのような死に方をすることを、
ある程度は予期(覚悟)していたからではないだろうか?

本人が「嫌だな」と思っていても回避不能な運命もある
この世に姿かたちをもって生まれた以上は
なにがしかの選択が回避不能だからだ



「この一言」を言うべきか言わざるべきか?
そこに宇宙大の運命の分かれ道がある

その重大さが分かっている人は誰もがある意味でマスター(宇宙の中心者)だ
しかし、その自覚が足りない、その自覚にいまだ達していないならば
その人はマスターとは言えない

OSHOはラマナ・マハリシを評して
「彼は神秘家としては超一流だが、マスターとしては最悪だ」と言っている

そういう人は、
菩薩(慈悲をもたらす)タイプというより、
阿羅漢(悟り一直線)タイプなのかも知れない

そういう人は「沈黙で語る」タイプであり
またそれこそが全宇宙の調和に最も効率的な貢献のしかたなのかもしれない

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