We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です



一般的には、「待つ」ことには主語があり、目的語がある。
たとえば、「私は、貴女を、待つ」様に・・・

日常はこういった「必要の発生」
「必要を満たす為の手段の計画」
そして
「目的を設定した上での計画の遂行」
という大小のプロセスで成り立っている。

だから
「何も無くただ待つ」といわれてもトンチンカンであろう。

しかし、実際には
何か特別な状況を作り出したい、
そんな状況にはやく到達したい。
っと焦っている時、

・・・・私たちの人生は惨めさに被われる。
    「何か」を待っている時、
    それは到底、「待っている」とは言い難い。

「神はあなたを愛しておられる」だとか
「この世の終わりには救世主が再臨する」だとか
      そんな宗教を持っていない私たち日本人が
      一体何を焦る必要があるだろうか?

私たちは、
「千代に八千代に、こけのむすまで」
  君の代を願う、えらく気が長い民族である。

待っている「わたし」も、待つべき「誰か、何か」も
ぶっ飛んで消え去っている時にだけ、
ぽつねんと「待つ」ことだけが残される。

 これが本当の「待っている」状態だ。

私たちは皆、どこから来たのか?本当は知らない。
私たちは皆、どこき行くべきなのか?それも知らない。
 なのに一体、どこに行こうとジタバタと焦っているのだ?

「何も無くただ待つ」
このことを理解するまでに、
わたしは今までの人生で多くの代償を払ってきた。
いいや、
それ以上に、愛すべき人達をも急かせて、多く傷つけてきた。

昔、離婚の際に痛烈な痛みと共に学んだことを、
今朝、突然思い出して、おもわず上記DVDをポチったのだ。

「あり得ない」
 ---だなんてこと
  何もあり得ない



ヌーソロジーでは
「スピリチュアルなどで
 〝内側=主観的な認識〟と呼んでいたことは、
      実は〝外側〟だった」と言っている。

つまり、この言葉は
 「堅く限定された物理空間でさえもが、
     実は私たちの意識の投影だった」
    っという風に言い換えられるかも知れない。

「物理的な環境が先か?」
「意識が先か?」・・・難しい課題だ。

一般的なアカデミックな(いわゆる)科学では、
迷うことなく「脳(ハードウエアー)が意識を作った」っと解答するだろう。

たとえば、私が住む東京の街は、私が東京に来る前から存在していた。
そしてその東京に住む私は、東京という環境によって明らかに影響を受けている。
「東京が今の私を形作った」っと言っても良いかも知れない。

でもその反面、
「今の私(=意識)が東京という街をずっと待ち望み、
 宇宙開闢以来から東京という街をずっと準備し、形成し
  そしてその出来上がった環境を選んで今も住んでいる」
  というバイオセントリズム的な発想で解釈することも可能だ。

これはいわゆる壮大な
「タマゴが先か?ニワトリが先か?」という議論だ。
       
表面的、近視眼的にはあきらかに
「東京が、私を作った(私を招いた)」としか思えない。

そしてこれは同時に、
「現代の貨幣経済が、今の私たちを生みだした」とも言い換えられる。
この〝近視眼的な見方〟は一見するならば明確な因果関係を物語っていて、
不可逆的に見える。

すると私たちはいわゆる
「世の中やっぱカネが全てじゃん」っていう結論に縛られることになる。

この「表面的、近視眼的な因果関係がすべて」という囚われが
まさしくわたしたちを束縛している「人生の罠」そのものではないだろうか?

しかし、
実際には誰もが無視できないような
シンクロニスティーを体験したことがあるだろう。

それがまたソクラテスの言った「無知の知」が指し示すところでもある。
つまり、すべてを因果律(自然科学)のみに頼って、
いつかはすべて説明し尽くせるという日が来る、っという傲慢だ。


私たちの見えないところでは、
物事は表面的な因果律を超えて
  あらゆる事が「起こり得る」。

この最たる例が、「ひとの考え方=MIND」だと思う。

あなただって、
巨大な岩石のような堅くて重たい
「人のありかた、考え方」を実感したことがあるはずだ。
ところがその反面、
たった一晩で、いや、一瞬で、がらりと変わることもあり得る・・・
      それがやはり「人のありかた、考え方」でもある。

そしてその変化は時と場合によっては、
モーセが紅海を割ったような、信じられないルートを私たちに開示するのだ。

待ち合わせ、
大事なあなたの
  時はカネなり



わたしは、このひろゆき氏が言うのと同じ様な
「女は男のカネについていく」
といった錯覚をつい最近まで引きずっていた。
現在でも自分の低収入に対するコンプレックスは強いが、
でも、まさしくそのコンプレックスとは、
この錯覚から完全に目覚めることで克服していけるはずだ。

順番が逆だったのだ。

お金がないから、自由な時間が無い、
自分に様々な選択の自由がない。
女性から相手にされない・・・。
・・・そうではなく
自分の時間、そして相手の時間を
大切にしないから、その意識が足りないからこそ
金運にも恋愛運にも友人運にも恵まれないのだ。

何も年がら年中、生産的な時間の使い方をしろ、とか
資格をとる勉強をしろ、という風に自分をせき立てることが
        「時間を大事にする」ということではない。
それをいうならば、まさしく瞑想こそは最大の時間の無駄だろう。

相手の時間を無駄にさせない、
自分のムードやら都合次第で相手を振り回さない。
・・・たとえば3.11の大震災の時にもちゃんと列を作って
   社会的な規律を崩さない。
   そういった他者への尊重に溢れている日本人だからこそ
   日本の社会は高い生産性と世界からの高い評価を得てきたのだ。

  それは単なるヒステリックでナーバスな規律主義ではない。
  右へならへの教条主義、協調思想というだけでもない。

  「自分の時間を大切にする」とは、
  「他人の時間を踏みにじらない」という実践によって体得できる。

  「愛とは何か?」とテツガクしているヒマがあったら
      愛を実践していく方がずっと体感できるのだ。

ジョブスのような「ビジネスの大成者」を英語でタイクーンと言うそうだが、
          なんとこれは日本語の「大君」が由来だそうである。

要は、女性が本能的に求める「デキるひと」というのは、
こういった社会への奉仕が「デキるひと」のことだったのだ。

 女性にインタビューするならば
 彼女たちの誰もが口を揃えて「優しい人がいい」という。

 ただそう答えている本人達さえ、多くの場合自覚していない。
 「優しい」とは、他者へのリスペクトに溢れている人で
 本当は
 「おまえだけを愛してるぜ」といった
 「依怙贔屓なひと」のことでは、実は、ないのだ。

だからわたしもそろそろ
「オンナは男のカネの匂いに追いていくのさ!」という
僻み根性を捨てようとおもう。

たしかに「男のカネの匂いに追いていく」いった女性も
世の中には多いかも知れない・・・
〝売春〟という人類最古の商売の存在がそれを証明している。
しかしそれを〝オンナの本性〟と思い込むのはとんでもない誤解なのだ。
そういう勘違いをしている男性は、
「女の本性なんて、誰もがビッチさ!」という
とんでもない思い込みを引きずり続けることになる。

女性は、
他者や社会全体への優しさや創意工夫に富んでいるひとを
見抜く本能を持っているし、
まさそういう本能の持ち主こそ、「いい女」「イイ男」なのだ。

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