We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

「血液型Bの人以外は牛乳を飲んでは駄目だ」という話を先日聞いてきた
「なぜなら牛の血液型はBだからだ」そうである

オーケー、私が飛行機事故か何かで生き残った時は、
B型のわたしは、同じB型の人の遺体を食べることにしよう・・・

しかし、平穏な日常生活において
「自分と同じ血液型だから」ということで人肉を食べたいとは思わない

よくベジタリアンへの反論として
「牛にしか含まれない必須アミノ酸が・・・」ということを聞くが
その理論を極端に御進めるなら
人肉こそ最高の健康食だと言うことになる

「健康とは何か?」ということを議論するなら
それはもっともシンプルな話であると同時に
もっとも複雑な入り組んだ話にもなる

〝健康〟と言う前に、死んでしまったら話に成らない

私達の先祖がまだまだ大自然の気まぐれや外敵と戦っていた時代、
とにかく気候などの環境にすみやかに適応することが、生死をも分けた
その大原則は現代でも同じなのだけれど
私達の体を環境に適合させるというよりも
環境を〝自分達用〟に〝改造〟する文明の力に
私達は大きく依存している点が、先祖達と大きく違っている

マクロビオティックでは「遠くて近いものを食べろ」というが
「共食い」とは「近いモノ」のことであり
人間が人間を食べるよりは牛や豚を食べた方が“健康への害が少ない”
同じ哺乳類を食べるよりは爬虫類を食べた方が“健康への害が少ない”
動物を食べるよりも昆虫や植物を食べた方が“健康への害が少ない”というわけだ

そして同じ種の野菜や穀物を食べるにせよ
自分達が今住んでいる環境、風土に、より適合した地元のもの・・・
つまり「近いモノ」を食べた方が、
私達の身体にその植物たちの環境適応力を得られて「健康になれる」というわけだ

    自らの身近なモノを地産地消で食べる・・・実にシンプル!

そしてそれは大昔から単にサバイバルに有利なだけではなく、
自然に健康で暮らす選択でもあった

わたしたち人間は自らの快適さのために環境を破壊してしまったが故に
自分達の健康(環境適合能力~強さとしなやかさ)をも失ってしまった

「ハンバーガーなどの肉類の毒消しに、実はコーラが有効だ」とも聞いた
それをマクロビオティック的に言えば「極陽性に極陰性をぶつけて中性を保った」
に過ぎず、それは
「一応バランスは取れたから死にはしないが〝健康になった〟と言う意味ではない」
っとマクロビでは説明する


不自然な環境破壊ゆえに私達は「科学的な知識」で健康に戻ろうとあがく・・・
それはまるで「肉とコーラの関係」の様だ

それによってとりあえず「死にはしない」かも知れないが
それをもって果たして「健康になった」と喜んでイイものだろうか?

「牛肉にしかない必須アミノ酸を、牛の死骸を食べて補充する」
これはまさしく
欧米的植民地思想、略奪文化、足し算だけの栄養学、切った貼ったの医学の発想だ
その発想の中心には旧約聖書的「神に作られた人間」を中心に据えた思想がある
あらゆる自然環境、あらゆる生命体を
「人間の犠牲にしても良い」というエゴの発想だ

「しょうがないじゃないか?人間誰しも自分が一番大事なんだからサ!」と
だれもが肩をすくめている・・・だから今の社会がある

・・・ところが、この発想を延長させた行き着く先は
   「人間が人間を喰う」世界である

それがアメリカ人がインディアンを虐殺した歴史であり、
アフリカから黒人を拉致して奴隷にしていった歴史になっている

金融支配とは何か? もともとそれは人類奴隷化の歴史だ

お金の正体とは
「スマートに人間を奴隷化し、喰いものにする」システムの根幹を担っている
それは
銃でインディアンを虐殺し、土地を略奪し、
鞭で黒人達を服従させてきた・・・その銃や鞭の合理的な代用品だった

それはエゴに取り憑かれた人間の「飴と鞭」だった
それは「人が文化的で健康を維持するための〝必需品〟だ」と誰もが信じている
でもその背後に隠れているのは「人が人を喰う」発想だ

しかし、
「共食い」は、完全なる「純然たる悪魔の思想」なのか?
                 といえばそこにも異論はある

性欲も食欲と近い要素がある
セックスとは「男と女が相手を食べ合う」行為だとも言える
そしてそれは「愛」や「食事」についても延長可能かも知れない
「喰う者と喰われる者」との間には
深い所には霊的な同意、約束、愛の絆があるのかもしれない

私は冒頭に「死んでしまったら健康どころではない」と書いたが
ひょっとしたら「死」と「健康」とは深い所では重なり合っている

「なるべく遠くて近いものを食べるべき」、という
マクロビオティックのセオリーをわたしは上記で紹介したばかりではある・・・
しかしそれでも、「命は命から頂く」という大原則は変わらない

・・・そうみれば「共食い」である

わたしたちはサラダを食べていると同時に
「サラダに食べられている(肉体を提供している)」のかもしれない

毛虫はカエルに食べられることによって
カエルのボディーに「乗り込む」のかもしれない・・・



はたして「相手を喰う」こと、イコール「殺すこと」なのか?
むしろ「自分の中に〝生かす〟こと」なのかもしれない

もし、健康の定義が「生と死の両方をまたぐ」ものならば
わたしたちはそこに様々な統合を見出せるだろう
その〝統合〟こそが、まさしく「健康とは何か?」という問いへの解答かも知れない



 要は
 「差別的な意図が有ったか無かったか?」が
  ポイントでは無いと言うことだとおもう・・・

  不愉快にさせてしまった相手がいたら
 「ゴメン、差別的な意図は無かったんだよ!」 と
  弁明するまではいいだろう

  問題はその後だ
 「差別的な意図はなければ無罪だろ?」というのは
             いかがなものだろうか?

「笑い」・・・ユーモアというのは、
人間性の精神のもっとも高度な開花なのだと思う

だから「何にユーモアを感じるか?」ということが
そのひとの魂の洗練された度合を計るバロメーターだろう

わたしは創価学会員のダウンタウンに
一度たりとも、クスリとも笑いを感じたことはない
彼等の提供する愚劣なギャグには不快感しか感じたことがない

ユーモアの要素の中心には、一種の「意外性」や「毒」がある
その「とっさに毒の成分選定とその量を調合する〝混合比率〟」こそは
まさしく「知性、教養の高さ」「センスの良さ」に掛かっているだろう

そしてその笑いが含む「毒への耐性」は、個々人で違うだろう・・・
ある人は高笑いするし、ある人は怒り出す・・・
とりわけ人種差別などは、
移民の国アメリカにおいてはデリケートなところであり
全く同じ「お笑い」であってもTPOによっては地雷になってしまう
笑いの提供者のみならず、むしろその笑いに立ち会う観客こそは
そのひとりひとりの知性やセンスが問われる・・・

自らの死への直面という「猛毒」さえも笑いに転換出来る人とは
まさしく悟った人なのかも知れない

60.Laughter   笑い

※ 前記事の補足的な内容だけれど・・・

 「神は微細に宿る」という言葉がある
  通常は非常に細部まで行き届いた職人芸などの
  「神業」をたたえた言葉なのだが
   前記事を書き終えて別の意味が浮かんだので
    ここに書き留めておきたい

人は何かと「法則」にしたがる・・・・
過去の経験率を集めて未来を推測したいという
    飽くなき野心が人間に常にあるからだ

ひとたび「法則」を唱えはじめたら
それを出版したり、講演したり・・・
結局そんな法則の読者や、講演、セミナーの聴講者の誰よりも
出版した人、講演したセンセイ本人が一番その「法則」で
大儲けしたりするわけだ・・・・

しかし999回ニワトリにエサをあげた人間が
1000回目もエサを与えに来てくれるとは限らない

まさしく千回目に、人間はまるまると太ったニワトリを
絞めに来たのかも知れない・・・

だからOSHOは
「確率論など当てにするな!」
「過去のデーターの蓄積など何の保証もしてくれないぞ!」
「いつも醒めていなさい!、油断するな!」と警鐘を鳴らし続けた

法則を唱える研究者は999回の〝実績〟を指さす
99.9%の成功率、命中率、実験の再現性を言う

しかし千回目は全く別かもしれない
わたしたちが絞め殺されるニワトリである時、
わたしたちは「まさか!」と薄れゆく意識で思うかも知れない
しかし「絞め殺す側」にとっては千回目こそがまさしく本命、ホンバン。
           ・・・・・当然の計画を実行したに過ぎない

法則には必ず「破れ」がある
セオリーには必ず「例外」がある

それは確率論的には0.1%に過ぎないかも知れないが
実はそれこそが致命的な100%~ものごとの全てを支配しているのだ

神の真実は常にその「一厘」にある・・・
すべてを意識している者だけが知っている・・・
その「微細」のなかに全てが宿っているのだ・・・

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