鬼の涙が乾いて節分の豆になる。
釈迦は餓えた人を救わず托鉢を促すだけだろう。
鬼子母神に慈悲を理解させることが出来るのはブッダだけだ。
釈迦は餓えた人を救わず托鉢を促すだけだろう。
鬼子母神に慈悲を理解させることが出来るのはブッダだけだ。
同情と慈悲との違いは単なる救済行為においては見分けられない。
飢餓、貧困、疫病、不当な差別・・・
これらからの人々の救済を試みるのは尊いことかも知れないが、無私無欲にしか見えない他者への哀れみ、同情の涙の中には、人々の運命をコントロールしようとする危険な鬼の毒が含まれている。
この毒を分離し、ウエットな感情を乾燥させた結晶体が鬼退治の豆だ。
世の中を改善したいと願った政治活動もまた然り・・・
日々をまめまめしく働くこと・・・
悲劇的な場面に駆けだしていくことは仏の慈悲ではなく、それはむしろ鬼だろう。
仏は決して鬼にはならない、
例え人間に同情して泣いたとしても
鬼は決して仏にはならないのだ。
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真の救済とは
キリストが差し出す奇跡のパンではなく、
仏が差し出す托鉢なのだ。
奢らず、高ぶらず、山っ気も起こさず・・・
ギャンブルでのイッパツ勝利も、
宗教や超能力者の起こす奇跡的な現象も
私たちに決して本当の奇跡を生じさせないだろう。