We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

この数ヶ月感で出会った人々には、ある共通の特徴が有った
それは「自分は絶対的な基準(神、最高の師)を見つけた!」と
得意満面になっている、っという点だった

いわゆる求道者とは、
みな「絶対的な基準探し」をしているといえるかも知れない
そしてそれらしきものが見つかると?・・・得意満面である

私自身も恥ずかしながら何度もそういう増長慢心に陥った・・・
・・・それはわたしが劣等感が強かったからだ
   誇れる〝何かsomething〟が欲しかったからだ
   不安で孤独だったからだ
   人生の手応えに餓えていたのだ・・・

    だからわたしは「求道者になった」と言えるかも知れない

   だから「絶対的な真実を見つけた!」と得意になっている人々を
   わたしはバカに出来る立場ではない

ひとは誰もが寄る辺なき存在だ
だから頼るべき絶対的基準が欲しいものなのだ・・・

  恋愛の黄金律・・・
  健康の黄金律・・・・
  ビジネスの黄金律・・・・・

そうすればそこから「絶対的な未来」が保証されるではないか?
そして「見つけた!」と自負した人は
今度は慈悲心として、人々の教師になろうと自負する
・・・人々を教え出す

  そして、より深く、より深くと永遠の探求の道が続く
  今度は弟子達と共に

 でも私から観れば、
「教師になってしまった時点でもう探求は死んでいる」と思う
「これぞ絶対的な宇宙の法だ!」と宣言した時点で、もう結論は出いている
ヒエラルキー、白い巨塔が見えてきた時点で、それはもうバベルの塔だ

私たちが本当に凝視するべきなのは
「なぜヒエラルキー(階層)、白い巨塔を私たちは築いてしまったのか?」
                     その最初の動機だと思う

  「何故?探求を始めたのか?」

 その「はじめの一点」を誤魔化し無く打ち抜いたなら
 すべてのバベルの塔は瓦解するだろう

major_16


「人生に究極の目標、完全な理想、絶対的な解答はあるのか?」
「あるとしたなら、わたしは生きてそこにたどり着けるか?」
「あるとしても、わたしは本当にそれを得るにふさわしい人間なのか?」

私たちはいくつもの仮定、いくつもの仮説、
無限大の期待と不安を潜在的に秘めて〝探求〟をはじめた・・・

そんなものありはしない、
そんなところにたどり着けるわけがない、としたら
じゃあ、
〝ありもしないそこ〟
〝辿り着けるはずがないそこ〟に向かって
    旅をはじめる意味があるだろうか?

本当は私たちは出発時点から、
すでに目的地のホテルに電話かネットで「ご予約」して旅立ったのだ
だからもし「私は辿り着いた!」と宣言するならば
それは「その人自身がはじめから抱いていた条件」と一致したに過ぎない

それで
ジャーニー(さすらい)と言えるか?
アドベンチャーと言えるか?
純粋なクエストだったと誇れるだろうか?
   ・・・宿泊先を予約して??

探して得た回答なんて
単にオーダーした商品が到着しただけだ
でもそんなAmazonのネットショッピングみたいな行為が
       本当に、純粋に〝探検〟といえるだろうか?

本人は「大冒険した結果だ」と主張するだろう
でもそれらは、
「自分で作り出したRPGの夢の中」での話じゃないだろうか?

それはどこまでもどこまでも自分自身の欲望を投影した
閉じた球体の内側での堂々巡りだ

中毒、依存症というのは、
ある意味で「脳を乗っ取られる病気」といって差し支えないかも知れない

吸ってはいけないところでタバコをする、もうやめたいのに吸う
飲み過ぎだと解っていて、「もう一杯だけ」と酒をあおる
ギャンブルも歯止めが利かない

依存症というのはすぐに自分の脳内で「言い訳」が湧いてくる
つまりそれはもうひとりの自分?別の誰か?何か?
・・・が脳内にいることを意味している

いったいどちらが「本当の自分」で、どちらが「ニセモノの自分」なのか?
その真贋の基準がハッキリしていれば
「ニセモノの自分」を見抜き、その言い訳を黙らせ、
その誘惑を断ち切ることができるかもしれない

酒や煙草やギャンブルと言った典型的な依存症なら
客観的に第三者から見れば、その「言い訳」は一目瞭然なのだが
しかし「乗っ取られている人」その本人にとっては難しい・・・
だってアイデンティティー自体が移行してしまっているのだから・・・

では果たして「依存症などではない」と自認している私たちは
本当に大丈夫なのだろうか?
私たちの脳内には常にいろいろな考え、いろいろな言葉が飛び交っている
しかし「他に誰も居ない」ならば、何故脳内に言葉が必要なのか?
何故私たちはひとりで居ても脳内でおしゃべりしているのだろうか?

・・・じつはこの分裂した複数の自己というのは
   どれも〝ニセモノ〟なのではないだろうか!?

よく「スピリチュアルな人々」の用語では
「真我:セルフ」とか「エゴ」とか言っているが
脳内でおしゃべりしている
誰(どれ)が「セルフ」で、誰(どれ)が「エゴ」だというのだろうか?

・・・この分裂、この分類、この葛藤それ自体が
   すでに「乗っ取られている」のではないだろうか?

2L

つまり
「わたしは中毒患者ではない」
「わたしは依存症ではない」という人々も自覚がないだけで、
すでにとっくの昔に「乗っ取られた人達」なのではないだろうか?

しかもアルコール依存症の人は、
対象が物体であるが故に、まだしもハッキリその自覚があるが
もし「乗っ取られたかりそめの自己」で〝ありつづける〟人達は
一体どこで自覚出来るのだろうか?その依存から脱出出来るチャンスはどこに?

・・・そう考えると
   つまり「全てのアイデンティティーがニセモノの自己なのかもしれない」
   っという驚くべき可能性を考えると、
   わたしは誰も笑えなくなるし、バカに出来なくなる

酔っ払っている人は、往々にして「自分はまだ大丈夫、シラフだ」と言い張る
夢見ている人は、自分の見ている夢を「これは現実だ」としか思えない、
                      如何に荒唐無稽な夢でも・・・

そして、「自分は正気だ」「自分は正常だ」「自分は自立している」と
              堅く、強く、深く信じていればいるほど、
実は厄介な
深い精神病、深い眠り、深い中毒患者なのかも知れない

OSHO_「私はあなたを全てのガラクタから解放したい」 from Katal Maneel on Vimeo.

青年時代の思い出を二つほど・・・

私が中学生の時 我が家には白い中型犬がいた
性格は優しく穏やかで 従順だった
特に私に懐いていたので 散歩は私が担当することが多かった
この子は性格は良かったんだが 今一つ観察力には欠けていた
道の端っこを通りたがったから鎖を持つ私との間に
よく電柱が絡まってしまい、それごとに散歩は中断される
・・・当時まだ中学生で思いやりがなく短気だった私は
   この状態になるとよくこの子に腹を立てて叱りつけた

 従順だったこの子は叱られる毎(ごと)に、
 「自分がなぜ 叱られているのか?」
 洞察するよりもしょんぼりとうなだれてしまい
 ますますキチンと前を見ずに歩くために
 ますます障害物にチェーンが絡まってしまった・・・

飼い犬にとって唯一の生きている喜びを実感できる時・・・
待ちに待ち焦がれた「食事」と、そして楽しいはずの「散歩」なのに・・・

いま思い出しても
「ひどく冷酷な飼い主だった私自身の姿」を思いだし
      胸がシクシク痛む思い出であると同時に
あの子のうなだれてあるく姿は私が作り出した
「もう一人の孤独な私」
「いつも切羽詰まった感情で苦しんでいた中学生の私」
であったとも思う・・・

  もうひとつの思い出、
   それは「我が家の雰囲気」全体だった

我が家にいつも蔓延していた緊張感とは、一言で言えば
「家族の一員であることに伴って存在する“義務”」の意識だった
父も母も極めて真面目(であろうとした)夫婦だった
元財閥系の厳めしい体質の企業に家族の生活はすっぽりと包まれていた
文字通り「ゆりかごから墓場まで」「世間体がすべて」の生活だった
その中で気が狂わんばかりだった長男の私は
「我が家の恥、汚物」として生活していた
わたしは
「やむをえず育ててもらっていた」長男だった
そしてその私自身にとってそれが
「家族とはなにか?」というモデル、プロトタイプのイメージとなった
私という存在は「生まれながらの失敗作、家族の不適合者」であり
そしてその背後にある概念とは「失敗は罪である」というものだった

多分私の「正解への執念と怨念」はいまも人並み外れたものだろう
それがいままでの私を作ってきた

ここまで読んでくれた人はもうお気づきかもしれないが
このふたつの私の思出話は深くリンケージしている

私のいままでの人生は「失敗への恐れ」に満ちていた
そのことを遠い過去の思い出であった白い犬「チロ」の、
私に叱られたときの悲しい目がずっと訴えかけていてくれたのだ

よく「親のひどい欠点を自分は絶対繰り返すまい」という決意が
見事に自分自身を裏切り、
親とそっくりの欠点を自分自身に見いだして愕然とする・・・

そんな話を聞いたのみならず実体験している人も多いのではないだろうか?
でもまさしくその「決意」こそが・・・
「親と同じ失敗は絶対に繰り返すまい」という自らの強迫観念こそが
まさしく私たちに「親と同じ失敗」へと導くのだ


このページのトップヘ